観音・聖母マリアについて
観音と聖母マリアは同じ存在であり、別の側面という話を並木良和さんが話すことがありますが、
私もエネルギーで視てそう感じています。
2019年のロサンゼルスでの出来事になりますが、良和さんが近くにいたときに、あるお店に入り、
彼は後ろにいたのですが、
「あ、僕のセッションルームにあるのと一緒だ!」
と、上の方を見上げた声が聞こえてきて、その声がする方向を見ると、観音の像がありました。
ちょうど自宅に私に必要なスピリチュアルの感性を研ぎ澄ますような像が欲しくて、このくらいの大きさ、と想定していたものがあり、まったく同じような大きさだったため、
買わないという選択はありませんでした。
良和さんは、セドナから持ち帰ったとのことだったので、それならロスからも持ち帰れるのではないかと考えて、手元に置くことにしたのが下の写真の「観音」です。
リトリート中だったのですが、二人で、倉庫からお店の人が出してきてくれるのを待って、それに付き合ってくれたような、なにか私を観察している感じでした。
そこは短時間しかいられない場所で、レジに並ぶも私も買うという人がすこし迷っている間に、横から人が入ってきたりしていて、前に進まず、本当に時間もなく本当に手に入れたいかを試されているような感じ。
そんな中、どうしてか私の横にずっといてくれて、良和さんは事の終始をみている感じでした。
(本当に手に入るか、エネルギーワークで時空を変えているのもみていた感じ)
OKな時は、空が空いている。(エネルギー上)とっさにする、エネルギー読み。私オリジナルの方法。
そうやって手に入れた観音。
家についてから、観音が私の空間に入った意味を考えていました。
マグダラのマリアと関係が深い私。
そういながらも、息子との関係を昇華させたかった。
息子との関係もその2019年の1月から、2023年の夏、具体的になにかをしてくれたわけではなかったけれど、良和さんとの繋がりから観音にアクセスしやすかったので、感謝です。
今、そのエネルギーは私に馴染みながらも、もともと今生のはじめから繋がっていた同じ目的で動く、縁の深いマグダラのマリアへとの協働・プロジェクトが始動しつつあります。
マグダラのマリアは、子どもたちを置いて、イエスについて行った。
その時代でしか行えないことがあると感じています。
今の時代で出来ることも増えている。
先人たちが歩んでいたからこそ、そこから始められることがあると感じています。
本音と建前の世界なんて、なんの感動もない。
けれども、完全なんてない。存在に感謝。それしかない。